「弟とは二十年会っていません。どこにいるかも知らない。それでも印鑑をもらわないといけないんですか」
相続の手続きが動かない理由で、いちばん多いのがこれです。財産の内容でも、税額でもありません。人です。
遺産分割協議は、相続人が全員そろわないと成立しません。一人でも欠けていれば、その協議書は無効です。銀行も法務局も受け付けません。
今日は、連絡が取れない相続人や、話し合いに応じてくれない相続人がいる場合に、何をどの順番で進めるかを書きます。
目次
全員そろわないと、何も動かない
音信不通の相続人がいると、次のことが全部止まります。
・不動産の相続登記
・預貯金の解約
・株式や投資信託の名義変更
・配偶者の税額軽減、小規模宅地等の特例の適用
最後の一つが、金額としてはいちばん重い。特例が使えないと、相続税は跳ね上がります。後半で数字を出します。
なお、葬儀費用などで当座の現金が必要な場合は、預貯金の仮払い制度で一部を単独で引き出せます。協議が止まっていても、これは使えます。
まず住所を探す。戸籍の附票で追える
「どこにいるかわからない」とおっしゃる方の多くは、探し方をご存じないだけです。
戸籍の附票という書類があります。その戸籍に入っている人の住所の移り変わりが、時系列で記録されています。本籍地の市区町村で取れます。
相続手続きで戸籍を集めていく過程で、相続人全員の本籍地は判明します。そこから附票を請求すれば、現在の住民票上の住所がわかります。
これで、かなりの割合は見つかります。本当に住民票を移さずに生活している人は、思っているほど多くありません。
見つかっても、そこに住んでいるとは限りません。住民票だけ残して転居している場合もあります。それでも出発点にはなります。
手紙を出す。三通目で返事が来た
高崎市内のご兄弟の相続で、こういうことがありました。
お父様が亡くなり、相続人は息子さん三人。三男の方が二十年ほど前に家を出て、それきりでした。年賀状も来ない。
附票を取ったら、県外の住所が出てきました。長男の方から手紙を出していただきました。返事はありません。
二通目を出しました。今度は、父が亡くなったこと、財産の内容、手続きに署名が必要なこと、返事がなければ家庭裁判所の手続きに進むことを、事務的に書きました。感情的な文面にしないほうがいいと申し上げました。
それでも返事なし。三通目を出して二週間後、長男の方の携帯に電話がありました。
三男の方は「自分は相続放棄する。財産はいらない」とおっしゃいました。ただ、この時点で亡くなってから半年が過ぎています。
相続放棄は、相続の開始を知ってから三か月以内です。期限を過ぎると、家庭裁判所で放棄の手続きはできません。詳しくは最初の三か月でやることに書きました。
代わりの方法があります。遺産分割協議で「三男は財産を取得しない」と決めればいい。結果は同じです。放棄という言葉を使わないだけで、実務では日常的に行われています。
この二つは、法律上は別物です。相続放棄は最初から相続人でなかったことになるので、借金も引き継ぎません。協議で取り分ゼロにする場合、対外的には債務を負ったままです。借金がない相続なら問題になりませんが、そこは確認が要ります。
三男の方には、協議書と印鑑証明書の取り方を書いた案内を郵送し、署名押印して返送していただきました。九か月目でした。
それでも見つからないとき
附票を辿っても居所がつかめず、手紙も届かない。この場合は家庭裁判所の手続きになります。
ひとつは不在者財産管理人の選任です。行方不明の相続人の代わりに、財産を管理する人を家庭裁判所に選んでもらいます。多くは弁護士や司法書士です。
この管理人が協議に参加します。ただし遺産分割は管理人の通常の権限を超えるので、別途、権限外行為の許可を得る必要があります。そして管理人は不在者の利益を守る立場なので、法定相続分を下回る内容には基本的に同意しません。
申立てから選任まで、数か月かかります。予納金も必要です。
もうひとつが失踪宣告です。生死が七年以上わからない場合、家庭裁判所に申し立てると、法律上死亡したものとして扱われます。相続人から外れ、その方に子がいれば代襲相続になります。こちらは一年近くかかることもあります。
どちらも時間がかかるので、探し始めるのは早いほどいい。四十九日が済んでから、では遅いことがあります。
連絡はつくが、話が進まないとき
所在はわかっている。ただ、仲が悪い。あるいは条件が折り合わない。これも多いパターンです。
当事者だけで話すと、財産の話が過去の話に戻ります。誰が親の面倒を見たか、誰が学費を出してもらったか。そうなると、まとまりません。
合意できないときは、家庭裁判所の遺産分割調停を使います。調停委員が間に入って、双方の言い分を別々に聞きながら進めます。顔を合わせずに済みます。
申立先は、相手方の住所地を管轄する家庭裁判所です。相続人が複数いる場合は、そのうち誰かの住所地の家庭裁判所になります。高崎市内であれば前橋家庭裁判所高崎支部です。
調停でもまとまらなければ審判に移り、裁判所が分け方を決めます。ここまで来ると、ほぼ法定相続分どおりの結論になります。
調停は月に一回程度のペースで、一年以上かかることもあります。だからこそ、その前に第三者を入れる価値があります。税理士や弁護士が同席するだけで、話が財産の話に戻ることがあります。
間に合わないと、いくら余計に払うか
分割がまとまらないまま十か月が来ても、申告と納税の義務はなくなりません。法定相続分で分けたものとして計算し、申告して納めます。
このとき、配偶者の税額軽減も小規模宅地等の特例も使えません。
数字にします。財産が一億二千万円、内訳は自宅の土地三千万円、建物五百万円、預金八千五百万円。相続人は配偶者とお子さん二人とします。
分割が済んで、配偶者が自宅を取得した場合。小規模宅地等の特例で土地の評価が八割減り、二千四百万円下がります。課税価格は九千六百万円、相続税の総額は五百七十万円。配偶者の分は税額軽減でゼロになるので、実際の納税は二百八十五万円です。
未分割で申告した場合。特例が使えないので課税価格は一億二千万円のまま。相続税の総額は九百六十万円で、これを全員が法定相続分で納めます。納税は九百六十万円。
差は六百七十五万円です。この額を、いったん現金で用意しなければなりません。
後日まとまれば、更正の請求で取り戻せます。ただし申告書に「申告期限後三年以内の分割見込書」を添付しておくことが前提です。出し忘れると、あとから分割しても特例は使えません。十か月の申告期限の記事にも書いたとおりです。
防ぐ方法は、ひとつしかない
遺言書があれば、この記事に書いたことのほとんどは起きません。
遺言があれば、遺産分割協議そのものが不要です。音信不通の相続人がいても、その人の署名を取らずに登記も預金の解約も進められます。遺留分の問題は残りますが、請求されなければそれまでです。
お子さんの誰かと疎遠になっている、兄弟の一人と長年会っていない。そういう自覚がある方は、書いてください。遺言書は必要かという記事に、形式と書き方をまとめています。
残された家族が、二十年会っていない人の住所を探すところから始める。その手間を省けるのは、ご本人だけです。
冒頭のご相談者には、探し方をお伝えして、実際に手紙を出していただきました。時間はかかりましたが、まとまりました。まとまらないまま何年も宙に浮いている家も、実際にあります。
















