「母さんが全部相続すれば、税金はかからないんですよね。だったらそれでいいじゃないですか」
お父様を亡くされたご家族との打ち合わせで、長男の方がそうおっしゃいました。お母様も、それでいいと。話は五分で決まりそうでした。
私は、少し待ってくださいと申し上げました。その場で数字を出して見せたら、結論が変わりました。
遺産分割協議書は、財産を誰が取るかを決める書類です。同時に、税額を決める書類でもあります。今日は、書き方と、分け方で税金がどう変わるかを書きます。
目次
何のために必要な書類か
遺言書がない場合、財産は相続人全員の共有になります。この状態では、何も動かせません。
誰が何を取るかを話し合って決め、それを書面にしたものが遺産分割協議書です。これがないと、次のことができません。
・不動産の相続登記
・預貯金の解約と払い戻し
・株式や投資信託の名義変更
・配偶者の税額軽減や小規模宅地等の特例の適用
最後の一つが、相続税の話です。分け方が決まっていないと、税金を安くする制度が使えません。ここが十か月という申告期限との関係で効いてきます。
協議には相続人全員が参加する必要があります。一人でも欠けていれば無効です。連絡が取れない相続人がいる、認知症の相続人がいる、という場合はそれぞれ別の手続きが要ります。
書き方。落とすと作り直しになる項目
決まった書式はありません。手書きでも構いません。ただし、入っていないと使えない項目があります。
・亡くなった方の氏名、死亡日、最後の住所と本籍
・相続人全員の氏名と住所
・どの財産を誰が取得するか
・全員の署名と実印の押印
・全員の印鑑証明書を添付
相続人の人数分を作って、各自が一通ずつ保管します。二枚以上になるときは契印を押します。
不動産の書き方が一番の落とし穴
ご自身で作られた協議書を拝見すると、不動産の表示でつまずいている例が本当に多いです。
住所を書いてはいけません。登記事項証明書に記載されているとおりに、所在、地番、地目、地積を書きます。建物なら所在、家屋番号、種類、構造、床面積です。
高崎市江木町六一〇番一〇、といった地番は、普段使っている住居表示とは別物です。ここを住居表示で書いてしまうと、法務局で登記が通りません。
作り直しになると、相続人全員から実印と印鑑証明書を集め直すことになります。遠方にご兄弟がいる場合、これだけで一か月かかります。登記事項証明書を手元に置いて、一字一句写してください。
後から財産が出てきたときの条項
忘れられていた口座や、把握していなかった土地が後から出てくることがあります。
そのたびに全員で協議し直すのは大変なので、「本協議書に記載のない財産が判明した場合は、○○が取得する」あるいは「別途協議する」という条項を入れておきます。一行あるだけで、後の手間がまったく違います。
配偶者に全部寄せると、どうなるか
冒頭のご家族の話に戻ります。
配偶者には税額軽減という制度があります。配偶者が取得した財産は、一億六千万円まで、あるいは法定相続分までなら相続税がかかりません。だから「母が全部相続すれば税金ゼロ」というのは、その場面だけを見れば正しい。
問題は、お母様が亡くなったときです。
実際に出した数字を、少し丸めて書きます。遺産は一億二千万円。相続人はお母様と、長男・長女の三人でした。
まず一次相続の相続税の総額は九百六十万円になります。この総額を、誰がどれだけ取ったかで按分します。
お母様が全部取得した場合。配偶者の税額軽減で、一次相続の納税はゼロです。ところがお母様が亡くなったとき、その一億二千万円を子二人が相続します。相続人が二人になるので基礎控除は四千二百万円まで下がり、税額の総額は千百六十万円。合計で千百六十万円の納税になります。
では、法定相続分どおりに分けた場合。お母様が六千万円、お子さんが各三千万円です。一次相続でお子さん二人が負担するのは四百八十万円。お母様の分は軽減でゼロです。二次相続では、お母様の財産六千万円に対して百八十万円。合計で六百六十万円になります。
同じ財産、同じ家族で、差は五百万円です。
長男の方は、しばらく数字を見つめていました。それから「じゃあ、なんで税務署はそれを教えてくれないんですか」と言われました。教えてくれません。申告された分割どおりに計算するだけです。
ひとつ断っておきます。この試算は、お母様がご自身の財産をお持ちでなく、一次相続で取得した財産をそのまま残して亡くなる、という前提です。実際にはお母様の生活費で目減りしますし、お母様固有の財産もあります。二次相続で小規模宅地等の特例が使えるかどうかでも変わります。
それでも、方向性は動きません。配偶者に寄せすぎると、二次相続で戻ってくる。「とりあえず全部母に」は、多くの場合いちばん高くつく分け方です。
小規模宅地は誰が取得するかで決まる
もうひとつ、分け方で結果が変わるのが小規模宅地等の特例です。自宅の土地の評価を八割減らせる制度で、金額のインパクトは配偶者の税額軽減に匹敵します。
この特例は、その土地を誰が取得するかで適用の可否が変わります。配偶者が取得すれば無条件で使えます。同居していたお子さんが取得する場合は、申告期限まで住み続けて所有し続けることが条件になります。同居していないお子さんは、原則として使えません。
つまり、自宅の土地を誰の名義にするかを間違えると、評価額が一気に跳ね上がります。詳しい要件は小規模宅地等の特例の記事に書きました。分割の話し合いを始める前に、これだけは目を通しておいてください。
分けられない財産をどうするか
預金は一円単位で分けられますが、不動産は分けられません。財産の大半が自宅と土地、という家庭では、ここが最大の論点になります。
・代償分割 一人が不動産を取得し、他の相続人に金銭を払う
・換価分割 売却して代金を分ける
・現物分割 土地を分筆して分ける
代償分割にする場合は、協議書に「代償として金○○円を支払う」と明記してください。この記載がないと、支払ったお金が贈与とみなされる可能性があります。一行で済む話です。
そして、決められないからといって共有名義にするのは避けてください。その場では平等に見えますが、売るにも貸すにも全員の同意が要ります。次の相続で持分がさらに細分化されると、収拾がつかなくなります。不動産の分け方は別に書いてあります。
十か月に間に合わないとき
話し合いがまとまらないまま申告期限が来ることもあります。
その場合は、法定相続分で分けたものとして計算し、いったん申告して納税します。このとき配偶者の税額軽減も小規模宅地等の特例も使えないので、税額は高くなります。
ただし、申告書に「申告期限後三年以内の分割見込書」を付けておけば、後日分割がまとまった時点で特例を適用し、更正の請求で払い過ぎを取り戻せます。この書類を出し忘れると、あとから分割してももう使えません。
申告期限そのものについては十か月の期限に関する記事にまとめました。
数字を見てから決める
冒頭のご家族は、結局、法定相続分に近い形で分けられました。お母様の生活が心配だという話も出たので、現預金は多めにお母様へ、自宅の土地は同居していた長男へ、という配分にしています。
分け方は、税金だけで決めるものではありません。誰が家を継ぐのか、お母様がこの先困らないか、兄弟の納得は得られるか。そちらのほうが大事です。
ただ、数字を知らないまま決めるのと、知ったうえで決めるのは違います。五百万円の差があると知っていてお母様に全部渡すなら、それは立派な判断です。知らずに渡してしまうのが、もったいない。
協議書に押印する前に、一度シミュレーションしてください。押印したあとでは、やり直せません。
















